お墓参り私論

もうすぐお盆、お墓参りの季節である。初めに断っておくが、僕は定期的にお墓参りに行っている。凍えるような寒い季節と茹だるように暑い季節に。

いったい世の中どのくらいの人がお墓参りに行くのだろうか。足繁く通う人もいれば、盆と正月くらいはの人もいるだろうし、ここ数年ご無沙汰な人もいるに違いない。遠方にあり、なかなか行けない人もいれば、すぐ近くにあり、いつでも行けるが故になかなか足の向かわない人もいるだろう。もちろん宗教によっては、そういった習慣がないことも考えられる。

お墓参りに行く人は、いったい何を思うのだろうか。何目的か。暑い時は薄着故に蚊の餌食となりながら、寒い時は吹き曝しの寒空の下、暖を奪われながら石材に向かって手を合わせる。供えられて時間が経ち枯れた花の掃除、なかなか点かない線香、そこそこ嵩張り重くなる杓と桶…。はっきり言って、「明日はお墓参りだ、イエーイ!!」とはなるはずもなく、どちらかというと、少し身構え、気合を入れて出かけなければならない行事である。挙句の果てに、「そこに私はいません。眠ってなんかいません。」(秋川雅史 2006)と言われる始末。実に非生産的な行為である。

繰り返すが僕は定期的に墓参りに行っているのだ。生憎、僕は故人と会話できるような特殊能力は持ち合わせていない。それでも行っている。篤い信仰心があるからだろう。いやっ、そうでもない。僕も行為自体は本当に非生産的なものだと思う。そもそも「◯◯家之墓」と彫られた石造物である一般的なお墓は、仏教の影響を受けるものであり、元々はお釈迦様のお骨(舎利)を納める塔を由来としており、お寺に聳える塔はそういった重要な意味を持つ施設であり、過去には寺域の中心に配置されていた。そこから派生してお墓にはご先祖様の遺骨が納められているのである。つまりお墓(石塔)は仏教の習慣であり、古くから我国に存在する先祖信仰と渡来した仏教が融合したことによって形を変えてながら現在の習俗となっているのである。ただ、仏教は物事に固執しとらわれること(執着)から自由になる「解脱」を最終的な目的としており、故人に対する「執着」に繋がるお墓参りは、本来の目的に相反する行為であると思う。よって、お墓参りは仏教的行為というよりは、もう一つの先祖信仰に重きを置いた行為であり、実際に先祖、特には亡くなった近しい親族を意識している側面が強い。僕の場合は、問題も多かったが、無条件に可愛がってくれた祖父がそれに当たると思う。

再度、確認しておくが僕は定期的にお墓参りに行っている。では、お墓参りすることでどうなるのか。暑いし寒いし非生産的な行為の意味とは何か。まず、故人に「会いに行く」という認識が語られる。残念ながら僕はお墓参りで祖父に会ったことがない。逆に会ってしまった場合、可愛がってもらった祖父に失礼かもしれないが、喜怒哀楽、いろいろな感情が湧き上がる中で、一番強い感情は、「恐怖」だと思う。同行者がいた場合、間違いなく「えっ、見えてる?」と確認することになるだろう。結果として、「そこに私はいません。眠ってなんかいません。」という歌詞は非常に的を得た話であり、会うために行くわけでないことは明白である。

会うという目的でない場合、考えられる認識として生前の諸々を思い出し、故人に思いを馳せるためというのはどうだろう。もっともらしく、限りなく正解に近づいたような気分になるが、正確ではないと思う。前提として正解があるわけではないので、ほぼ正解でいいのかもしれないが、この認識には大きな欠点がある。思い出し、思いを馳せるという「思う」行為は、墓に行かなくても可能ではないだろうか。「思う」ことが非常に重要なことであることは理解でき、故人の立場になった場合を考えても、忙しく気の抜けない生活の中で少しでも思い出してもらえることは非常に嬉しいことだと思うが、やはり、わざわざ出向く必要はなく、家で寝転びながら「思って」も同じことである。

僕は家で寝転びながら故人を「思う」お墓参りでも十分であり、お墓参りの目的の重要な部分はほとんど押さえられていると考えている。では、お墓にわざわざ行く意味は何か。それは、「思う」ことにプラスアルファの気持ちを添えるためだと思っている。くどいようだが僕は定期的に非生産的なお墓参りに行っている。故人を偲ぶと同時に非生産的な行為をさせてもらえるほど心と身体、生活にゆとりを与え、平穏無事に過ごさせてくれている先祖や神仏、しいては皆々様に感謝するために。考えて欲しい。着るもの、食べるもの、住むところに不自由している状態でお墓参りに行こうと思うだろうか。僕はとても行く気にならないし、発想すら浮かばないと思う。そんな無駄な行為をさせていただける自分の恵まれた環境を再認識するための行事がお墓参りなのである。

そろそろわかってもらえたかと思うが、僕は定期的にお墓参りに行っている。次に故人の立場で考えてみよう。よくお墓参りの作法的なことが語られるが、これも甚だ疑問である。いないはずの亡くなった祖父がどこかで見ているのだろうか、お墓参りの作法を。僕より祖父のことを知らないであろう誰かの決めた作法を。祖父は呆れるほど僕を可愛がった。そんな僕が生前は会えなかったひ孫を連れて祖父を思い、わざわざやって来ると思った場合、水のかけ方、手の合わせ方など細かいことを気にするだろうか。祖父よりさらに代を重ねるご先祖様も可愛がった孫の孫の孫の…作法を。自分がその立場であれば杓で殴られても気にならないし、お墓にいるわけではないが来てくれるだけで嬉しいと思う。もちろん、最低限の礼儀は僕も子供達をしつけなければならない。ただ、子供がお墓参りを億劫になるほど堅苦しくする必要はなく、子供のうちは、お墓参りに行くと何故か帰りに美味しいものが食べられて、欲しいものが買ってもらえるから嬉しいといったくらいの認識でいればよいのではないだろうか。作法は他人に指摘されるような性質のものではなく、それが絶対のものでもない。僕が故人なら堅苦しい作法が嫌で来なくなるより、ある程度崩れた感じで来てくれるほうを選びたいと思う。なんなら他の墓マイラーのご迷惑にならなければ、ピクニック気分でお弁当を食べてくれても構わない(子孫の気が引けると思うが)。

今年のお墓参りはどうしようか。手軽に思い出すだけの在宅墓参りもおすすめだ。遠くても近くても。墓参り代行もきちんと故人への思いが感じられる素晴らしい手段だと思う。一番避けるべきは、世間体でしかない連れて行かれる思いのない不本意墓参りだ。残念なことに未だに多く行われているのが現状である。これは本当に時間の無駄なので、はっきりと「昨日、お墓参りの話があった後に家で済ませた。」と伝えればいいと思う。その瞬間は間違いなく故人を思い出しているのだから。

お察しの通り、僕は今年もわざわざ非生産的なお墓参りに行くだろう。ありがたいことに。作法はほどほどに、故人への思いと今日の感謝を胸いっぱいに。いざ行かん、手ぶらで。

【参考】

秋川雅史 2014 「千の風になって」『B E S T  A L B U M』テイチクエンタテイメント

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