西瓜とSuica 〜スイカにまつわるエトセトラ〜 

【「スイカってまだある?」→「あるよ。」】

少し強引な会話かもしれないが、上記の会話の場合、どんな「スイカ」を思い浮かべるだろうか。『西瓜』それとも『Suica』。他にも別の「スイカ」があるかもしれない。

・「スイカってまだある?」→「冷蔵庫に少しあったと思う。」

この場合、冷蔵庫にある「スイカ」と言えば、『西瓜』だろう。

・「スイカってまだある?」→「昨日、チャージしたから大丈夫。」

この場合、チャージする「スイカ」と言えば、『Suica』である。

【スイカが欲しいんですけど。】

この発話はどうだろう。どっちの「スイカ」だろうか。『西瓜』それとも『Suica』。この発話は発する場所によって判断される。

・駅の窓口にて「スイカが欲しいんですけど。」と言った場合、『Suica』に違いない。

・八百屋さんにて「スイカが欲しいんですけど。」といった場合、まず『西瓜』だろう。

【みどりのスイカ】

スイカが1玉だった場合、皮の部分はみどりと黒の縞模様なので、『西瓜』かもしれない。一方で、『Suica』のイメージカラーは黄緑色のようであり、大まかに言えばみどりに含まれる。

『西瓜』と『Suica』。「スイカ」としてカタカナで文章に出した場合、部分的な情報である【 】では、確定的な要素がなく迷いが生じてしまうかもしれない。それぞれについて「スイカ」が確定的に判断される場面を例として挙げてみたが、逆に考えてみると、『Suica』が冷蔵庫に入っていたり、駅の窓口で『西瓜』の販売を行っていたり、八百屋さんで『Suica』が発行されることが100%あり得ないとは言い切れない(さすがに『西瓜』をチャージするという場面は想像できないが)。にもかかわらず、実生活において、【 】の状態で会話に出てきたとしても、我々は特にコミュニケーションに支障をきたすようなことはない。超能力者なのだろうか。

見たことはないが、鉄道の改札機に必死に『西瓜』をタッチする人がいたらどうだろう。関東出張中の関西人は待っていましたと言わんばかりに「なんでやねん!!」とツッコむだろう、ICOCAエリアではあり得ないボケがそこにあるから。『西瓜』を持つ人曰く、「いやあ、「スイカ」をタッチするって聞いてたので…。」。「あっ、そうなんですね。」とはならないであろう。幸いこのような場面は、普通であればあり得ない、ただただ想像のストーリーである。

我々は日常生活において実に秩序立った行動をしている。その時々の場面における自分の立ち位置、周囲の状況などを体感して、文脈に沿った形で行動しているのである。コンビニで買い物をしたお客様が、「スイカで。」と言って1玉の『西瓜』を読み取り機にタッチし、店員さんが「半玉いただきます。半玉のお返しです。ありがとうございました。」とも絶対にならない。怪訝そうな表情になるだけである。とんだ「スイカ」違いは協調性のある安定した振る舞いを人々が意識している状態では、まず起こりえないのである。再生回数に支配されたトラブルを顧みないYouTuberの無秩序な動画以外に(迷惑なので絶対にやらないでください、あくまで例えばの話です。)。

場所がどこなのか。いつなのか。相手は誰か。何を持っているか。何をしているか。どうするのか。等々。すべての人が、これらの情報を瞬時に読み取ることでトラブルのない安定した社会が成り立っている。当たり前のようで凄いことが毎日行われており、また自分も行っている。どこかエスノメソドロジー(興味ある人は調べてください。)っぽい話である。

協調性のある秩序立った聡明な皆さんには伝わるに違いない。今日、僕は「スイカ」で「スイカ」を買って来ようと思う。さあ、どうだろうか。

…流石です。

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