「ぎっちょ」考 ~差別にならない「差別用語」の怪~

1、はじめに

「僕(は)、ぎっちょです」。何気ない会話の一言である。左利きを指摘された場面での出来事であるが、この後の相手の一言に強烈な違和感を覚えた。「それ、差別用語だよ」。

「それ」とはもちろん「ぎっちょ」のことであるが、自身の発話中の主語である「僕」は、自分のことであり、補語である「ぎっちょ」も結果的に自分のことを言っている。自分で自分を差別。もちろん筆者は、自分を差別する意識などない。通常、「差別語」は差別する側である「差別者」と差別される側である「被差別者」の意識が存在し、特定の言葉の使用が伴う相互行為としてはじめて成立する相対的なものであるはずである。では、この会話の相手が「ぎっちょ」である私に差別意識を持っているのか。これは確かめたわけではないので、実際のところはわからないが、相手との関係性においてまずあり得ないと思う。「差別」している人がいないのに「差別」になってしまう矛盾。そもそも、「ぎっちょ」は本当に差別用語なのかもはっきりしていない。疑問に思い、調べてみるとWikipediaの「差別用語」の項目には、「語感が障害者や身体的欠陥・病気または身体的特徴を連想させるもの」として『ぎっちょ』が挙げられており(2020年5月9日現在)、他にも差別的な表現として扱われた例として、1993年のテレビ番組においてタレントの「大勢で鍋をつついて食べたが、右利きばかりだったのでスムーズにいった。ギッチョがいたら腕がぶつかって大変だったろう」という趣旨の発言がカットされたという事例を確認した(高木 1999)。ただ、文脈的に差別的とは考えられず、腑に落ちない。自分自信左利きとして生きてきた現在までのことを思い出してみても自分に向けられた「ぎっちょ」という言葉の多くが両親祖父母から発せられたものと記憶しており、それは親しみを込めた「ぎっちょ」であったと思う。最近もご高齢の方に「ぎっちょですか。」と問われ、特に違和感もなく、「そうなんです。」という返答を会話の中でしており、これらすべてが差別となるのか、本論では、幾度となく耳にした「ぎっちょ」という言葉の成立や歴史的な意味と社会的な取扱いについて考えてみたい。一つの言葉が「差別語」とされるのか、「文化」とされるのかは当事者を含めてとても重要な問題である。

2、語源について

まず、言葉の使用については、1604年に発行された『日葡辞書』に「ヒダリギッチャゥ(左ぎっちゃう)」と見られるものが、現存史料の中で一番古いものである。発音は「ぎっちょう」であり、「ぎっちょ」はそれが短縮された形であると考えられ、意味として「左利き、または、左利きの人」と解説しており、「卑語」と注記がなされている(土井他 1980)。「卑語」について、一見、編纂当時より好ましくない言葉として扱われているような印象を受けるが、『広辞苑』では「いやしいことば」の他に「いなかびたことば」と説明されている(新村 2018)。実際に、「東北地方や関東の一部では”左利き”のことを”ぎっちょ”と呼ぶ」と説明している書籍もあり(箱崎 1968)、「いなかびたことば」すなわち「方言」と認識されていたとも考えられる。何よりも『日葡辞書』の性格としてイエズス会が出版した宣教師が日本語を学習するための書籍という前提があり、布教という不特定多数を相手にする活動においては、使用する言葉にも厳格な規範意識を持っていたと考えられ、現在では一般的に使用される「右手」や「昼間」の項目にも「卑語」と注記されており(森田 1989)、「卑語」の注記を持って「差別語」であったと断定することはできない。例えば1678年、同じく江戸幕府下に成立した井原西鶴編集の俳諧集である『物種集』において、「左義長(ひだりぎちょう)の器用はだ(肌)をや見せぬらん」という記述があり、決してネガティブなイメージとしてではなく、むしろ「ぎっちょ」がプラスのイメージで表現されている(国際、飯田他 1971)。また、戦前の文学作品には、「左ぎっちょの正ちゃん」(小川 2001)や「ぎつちよの甚」(菊池 1994)など「ぎっちょ」を題名に持つ作品もあり、「差別」というほどの強い偏見を持つ言葉ではなかったと思われる(『ぎつちよの甚』の内容では、「このぎつちよめ!」など少し強い表現が見られるが)。

では、近世にすでに成立していた言葉である「ぎっちょう」の語源はどういったものであろうか。各種辞書等により、実に様々な解説がなされているので、確認できた語源候補を挙げてみようと思う。

Aきよう…「器用(きよう)」が転訛して「ぎっちょ」となったとする説。同様の転訛として「不器用(ぶきよう)」が「ぶきっちょ」となっている例がある。幸田露伴が『音幻論』にて、「添音」の例として取り上げており(幸田 1958)、多くの辞書にも採用される語源説である。

Bきちょう…『俚言集覧』に「袖に手を入れて張出すを袖几帳と云、この几帳より出たる言歟」とある(井上 1900)。発音としては、「几帳(きちょう)」の転訛として「ぎっちょう」になったとしている。

Cぎっちょう(毬杖)…「毬」と「杖」を使用する正月行事でホッケーのような遊戯であり、左利きの人が左手に毬杖を持ったことが「左利き」を「ぎっちょう」と呼ぶ由来となったとされる。毬杖は平安時代の年中行事を描いた『年中行事絵巻』に描写されており、原本は12世紀後半に成立したものであるが、伝来の過程で散失・焼失し、現在は17世紀半ばに住吉如慶・具慶父子によって模写された16巻の他、幾種かの模本が伝わっている(小松 2000)。描かれている場面には、毬杖を右手に持つ者・左手に持つ者いずれも描かれているが、右手に持っている人物の方が多い(小松 1977)。

C-1(左)ぎちょう…「左義長(さぎちょう)」からの転訛とされる。左義長とは、Cに使用した毬杖を小正月に焼く習俗「三毬杖」(毬杖を三本焼くため)の発音に当て字がなされたという説があり(江馬 1977)、地域によっては「どんど焼き」・「ほっけんぎょう」などとも呼ばれる。「左」という漢字が当てられたことにより、「左利き」と発想が結びついたと考えられる。

C-2ぎっちょ(炭)…茶道に使用される炭の名称に「丸ぎっちょ」と「割ぎっちょ」がある。炭の形状がCの毬杖に似ているため、この名称となったとのことである。表千家の炭点前、裏千家の炭手前等流派によって違いがあるようだが、基本的に丸ぎっちょも割ぎっちょも風炉の向かって左側に配置されていることから(堀内 2003、阿部 2006)、「ぎっちょ」から「左利き」が連想されたものと思われる。

これら語源候補として挙がる「器用」・「几帳」・「毬杖」関係には、マイナスイメージを想起するような単語は含まれておらず、「器用」などは上述した『物種集』の表現同様に、むしろプラスにイメージされる言葉である。「ぎっちょ」が時代的な文脈で「差別」とまで言われるほどに意味が転化する要素は見当たらず、差別性の付与は時代を下った現代的な事象であると考えられる。

3、差別語と差別用語

ここからは現代において「差別語」とはどう定義されているのか具体的に見ていきたい。福岡氏は、「歴史的・社会的な過程のなかで、現実社会に現存する差別的な諸関係が一定のコトバにまといつくことによって、それ自体に特定の被差別者たちにたいするネガティブな情動的意味あいが固着せしめられたコトバ」と定義している(福岡 1984)。さらには、「一方向的である」・「文脈全体をとおしての表現主体の姿勢」という特徴も挙げた上で、「その語の成り立ちや、その語に歴史的・社会的に付与されてきている情動的レヴェルの意味あいいかんを討究することによって」、差別語かどうかを判断できるとしている。先程の「ぎっちょ」の例では、左利きに対する右利きからの言葉であることから「一方向的」であることは間違いなく、表現主体(右利き)の姿勢いかんによっては差別性が付与される可能性があるものの、成り立ちや歴史的な意味あいでは「差別語」としての要素は見出せなかった。

では、冒頭の「ぎっちょ」を「差別」と理解している相手は、何を根拠としているのか。前述したテレビ番組でのタレントの発言がカットされた例に通じる部分であるが、「差別語」と似た言葉にマスコミ等で使われる「差別用語」があり、この社会的な位置付けが一般的な差別性の判断に大きく影響を与えていると考えられる。福岡氏は「差別語」と「差別用語」という単語の使用に対する態度の差異にも言及している。マスコミなどで使用される「差別用語」は、「解放運動体からの抗議や糾弾などのトラブルを回避したいとの利害関心がベースになりつつ、そこに、被差別者を傷つけてはならないという規範意識が重なりあうところに成立」していると分析している(福岡 1984)。このような意識の上で定義された「差別用語」は、広い意味で差別と受け止められるかもしれない言葉も含める過剰な反応を引き起こし、1970年代に抗議活動の増加とともに、自主規制が進められ、範囲を拡大させた「禁句・言いかえ集」や「マニュアル」がまとめられることになった(堀田 2003)。そして、影響力の大きいマスコミの動向に追随するかのようにマスコミ以外にも差別の予防として作成されたはずの「禁句・言いかえ集」の内容が、「使ってはいけない言葉」という差別語として誤認されたまま普及し、勤務先等の新人・接遇・人権研修、場合によっては授業等に「差別用語」が取り上げられることにより、社会の一般的な理解としてすり替えられてしまっている。「ぎっちょ」の「差別語」扱いについても同様に拡大する「差別用語」によってもたらされたものと考えられる。

4、コミュニケーションの違いと差別語

不特定多数に情報を発信するマスコミにおいて、過剰なまでに言葉が選ばれることはある意味、当然のことである。福岡氏も指摘する通り、個々の言葉に対する判断は人によって多様であるからこそ、大多数の受け手の中に侮蔑的な意味を感じる人が一人でもいれば、それはその人への「差別」になってしまう。マスコミが、一方向的であり、不特定多数であり、影響力が大きいことが慎重になり、広範囲に自主規制する理由となる。では、双方向であり、特定の関係の中で、相対的な影響に止まる日常会話等においても、「かもしれない」まで及ぶマスコミのような配慮が必要か。実際に「ぎっちょ」は、成立や歴史的に見て「差別語」には当たらず、冒頭のエピソードの指摘は妥当とは言えない。表現主体、受け手に差別被差別意識がなく、用語にも差別的な意味がない場合、それはもう「差別」ではない。にもかかわらず、一般的な理解として通用してしまっている現状は、憶測に支配された不自由なコミュニケーションを強いられる不公正な社会である。本来であれば、使用禁止にする前に精査検討、議論を行い、確たる理由が説明されるべきである。この部分が欠落していることが問題の根幹であるが、多数ある「差別用語」を一つずつ検討することは現実的ではない。ならば、表現主体が差別的な姿勢でないが、受け手が侮蔑的な感じを受ける状況が発生した場合にお互いが差別になると判断した理由、ならないと判断した理由を相互理解のために逐次議論が尽くされるべきである。実際に本論は「ぎっちょ」をそのような視点から扱ってきたつもりである。

5、おわりに

「左利き」はマイノリティである。高校生の時、家庭科の授業において編物の実技があった。授業は説明がすべて右利き仕様であり、左利きで元々不器用な初心者にとって非常に難しく、先生が個別に対応してくれたが、教える側、教わる側双方が全く上手くいかず、地獄の様相を呈してきたため、「編物に関わらない人生を歩む」という捨てゼリフとともに課題の製作をボイコットした苦い思い出(結果として、通知表の数字は残念なものであったが、私の課題の作品は98%を先生が作ったため、非常に出来が良いものであった。あの時の幼稚な誓いがあったからこそ、この一文があるのかもしれない)。他にも通勤電車において非接触式定期券の改札機タッチ部分が右利き用の構造になっており、左手で定期券を持つと交差させなければいけないことや、小型で一箇所にしかボタンがないタイプのエレベーターにおいても、ボタンはドアの向かって右側にあることが多くこちらも交差させなければならない。また、新幹線座席の収納式テーブルで、飲み物を置くための窪みが右手側にある等々。左利きの受難は、枚挙にいとまがなく、数え上げればきりがない。「左利きの子供たちは強い劣等感を抱いたまま世の中に送りこまれていく」(箱崎 1968)・「ぎつちよの癖に、上手ぢゃ。」(菊池 1994)などは、そもそも「左利き」としての実生活において、社会全体が右利きを想定した構造になっているという無言の差別の甚だしさを表現しており、「ぎっちょ」の差別性は本論で見た通り、それ自体が曖昧な物であり、当事者にとっても不確かなものであるため、言葉の問題としてとらえることは相応しいものではない。「ぎっちょ」(左利き)は右利き多数の社会において、少数者としてのラベリングがなされ、無言無意識のうちにスティグマとなり、差別性を帯びてしまう。先にみたように言葉に差別的な意味はないため、左利きとしての社会的なスティグマが「ぎっちょ」という言葉に浸透して、偽差別用語として錯誤が生じているのである。つまり、実生活上の差別的な扱いが「ぎっちょ」という言葉に意図せずに差別性を付与している可能性すらあるのではないだろうか。

本論を通して、「ぎっちょ」についての歴史的な意味合いを考察した。結論として、使用される相互行為の意識の上では文脈によるが、言葉自体が差別語として扱われる根拠はなく、成立や歴史の中で差別的な意味が付与されたという事実は確認できなかった。むしろ、「左利き」の表現としての「ぎっちょ」は、発音や事象を洒落た言葉遊びのように表現し、機知に富んでおり、興味深い「文化」そのものである。一方で、左利きとして生きている人の中で、侮蔑的な意味を付与した「ぎっちょ」という言葉を投げつけられ、傷つき抵抗を感じる人もいるかもしれない。その場合、その人に対しては間違いなく「差別語」であり、避けるべき表現である。「ぎっちょ」に限ったものではなく、一般的に差別語とされない言葉も含めて、個々の言葉に受ける印象は人それぞれである。布教やマスコミなど広範囲に不特定多数の受け手がいる場合は、一つの言葉を使用することに細心の注意が払われるべきであるが、個々人の関係においては、歴史的にその差別性が明らかにされている言葉を除き、先んじてすべてを「排除」するのではなく、相手が受ける印象を「確認」し、自身の使用意図を「説明」する緩やかな段階があってもいいのではないだろうか。通常のコミュニケーションにおいて「その言葉は不快」と相手から言われれば、再度使用しないはずである。ちなみに、私にとっての「ぎっちょ」は、言葉の歴史をとっても、本人の歴史をとっても差別的な意味はなく、むしろ好意的に受け止められる言葉であり、不使用になることを望んでいない。ただただ、最寄り駅に左利き兼用の改札機が並ぶ日を願う毎日である。

6、参考文献

阿部宗正 2006『お茶のおけいこ32 裏千家茶道 炭手前』世界文化社

荒木雅實 2007「『邦訳 日葡辞書』の軽卑語 ー意味分類を中心にしてー」『拓殖大学 語学研究』第116号

飯田正一・榎坂浩尚・乾裕幸 1971『古典俳文学大系 3』集英社

井上頼圀 1900『俚言集覧 下巻』皇典講究所印刷部

江馬務 1977「毬杖・卯杖・卯槌・左義長と羽子板との関係について」『江馬務著作集 第九巻』中央公論社

小川未明 2001「左ぎっちょの昌ちゃん」『定本 小川未明童話全集 10』大空社

菊池寛 1994「ぎつちよの甚」『菊池寛全集 第三巻』文藝春秋

幸田露伴 1980「音幻論」『露伴全集 第四十一巻』岩波書店

(共)国際日本文化研究センターHP「物種集(句番号00431)」『俳諧データベース』

小松茂美 1977『日本絵巻大成 8 年中行事絵巻』中央公論社

小松茂美 2000「「年中行事絵巻」の誕生」『小松茂美著作集 第三十一巻』旺文社

新村出 2018『広辞苑 第七版』岩波書店

高木正幸 1999『差別用語の基礎知識 ‘99』土曜美術社

田宮武 1993「放送と差別語の禁句集作成」『マスコミと差別語の常識』明石書店

土井忠生・森田武・長南実 1980 『邦訳 日葡辞書』岩波書店

西角井正慶 1988『年中行事辞典』東京堂出版

箱崎総一 1968『左利きの世界』読売新聞社

福岡安則 1984「差別語問題考」『解放社会学双書1 マスコミと差別問題』明石書店

堀田貢得 2003「差別表現とは何か」『実例・差別表現』大村書店

堀内宗心 2003『お茶のおけいこ7 基本の炭点前[表千家流]』世界文化社

森田武 1989 『邦訳 日葡辞書 索引』岩波書店

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