「愛」と「恋」に関する一考察 〜『会い』と『来い』を手がかりとして〜

「愛」と「恋」。永遠のテーマだろうか。自身はあまり具体的に悩むような場面に遭遇したことはないが、問いの存在は昔から認識している。人それぞれと言ってしまえば、その通りかもしれないが、門外漢ではあるものの、両者に微妙な違いがあることは何となく理解できるのである。それこそ、誰もが通る道であり、憧れ、思い悩む時期があることから、それをターゲットにした映画や書籍、音楽等が巷に溢れており、情報過多の感も否めない。今回はこの青春を生き抜く猛者達の哲学ついて、明らか感覚が鈍りきっている四十に近づきつつあるおっさんが、特に感情的になることもなく、言葉のあり方から淡々と考察をしていきたい。当然、普遍的な答えになるはずもなく、飲み屋での与太話に毛が生えた程度の発想であるが、隙間時間を潰すくらいのネタになれば幸いである。

まず、「愛」も「恋」も漢字であり、文字としての祖国である中国でも何らかの違いがあるようである。ちなみに、英語で考えた場合、両者を訳す時にいずれも「LOVE」しか思いつかないのは、ただ単に僕が英語を苦手としているからだろうか。漢字に話を戻そう。漢字として音読みする場合、「愛」の発音は「あい」、「恋」の発音は「れん」となる。一方で、日本語において送り仮名がつかない状態で独立して出てきた場合は、通常、「愛」は『あい』だが、「恋」は『こい』と読む。日本の文化においては名詞の『あい』と『こい』として微妙な違いを感知しているのだと思う。では、『あい』と『こい』は実際にどのように使い分けられているのだろうか。前提として「愛」も「恋」も自分と相手という二者間の関係の中で生じるものであるということは言えると思う。そこで、日本語の発音を頼りに別の単語を当てて、二者間の関係の上で、考えてみようと思う。『あい』は「会い」、『こい』は「来い」とし、動詞としての活用が糸口になっている。

『あい』は「会う」というワ行五段活用の動詞の連用形、『こい』は「来る」というカ行変格活用の動詞の命令形である。「会う」の連用形は、「会い(ます)」という形、「来る」の命令形は「来い」で存在し、両者とも意味としては、「特定の場所を共有するための行動」というようなニュアンスを持っている。大きく違うのは「行動のあり方」である。二者AとBが特定の場所を共有する場合、「会う(あい)」はAもBも「会う」意志を持っている双方向的な行為であり、両者に行動が伴うことに対し、「来る(こい)」は、AまたはBいずれか一方の場所に他方が「来る」という意志であり、単方向的な行為となっている。「A→会う←B」、「A←来る←B」みたいなイメージだろうか。さらには、『来い(こい)』が命令形であることも大きな特徴となる。6つの活用形《未然・連用・終止・連体・仮定・命令》のうち、命令形だけは、あからさまに関係性が対等ではない。命令し、命令されるのであるから。惚れた弱みは「恋」にあり、一方的であるが故に、拒絶されれば脆く、呆気なく可能性を失い「失恋」となる。双方向的な思いである「愛」は、すでに得失の結果であるため、短期的な「失愛」とはならず、ただただ加速度的に冷めてゆくのみ。双方向的な「愛」と一方的な「恋」。相互に対等な「愛」と、関係性に強弱がある「恋」。二者間で生じる心を伴う行動の連続性により、それを表現する言葉としての動詞が特徴的な感情によって体をなし、意味を獲得しながら一つの名詞に昇華していく。「愛」と「恋」、言葉の誕生の物語である。もちろん、これはフィクションである。

ありきたりな結論になってしまったが、そう考えてみれば、「恋愛」という二つが重なった単語についても合点がいく。これは、心のあり方の前後関係を表した言葉なのだ。一方的な思い(片思い)である「恋」から、双方向的な思い(両思い)である「愛」に至るまでの比較的長い時間の流れを表しており、「恋→愛」という意味で成り立っている。「恋」と「愛」の間にあるのは、近くもあり遠くもある二人の心の距離であろうか。

おっさんの恋愛論は以上である。「初恋」はあるけど、「初愛」はない。「求愛」はするけど、「求恋」はしない。そう言われてみるとその通りかもしれない。一つだけ難しい問題が残されてしまった。「愛人」もあれば「恋人」もある。どこか意味深ではないだろうか。この解釈やいかに。

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