韓国で進む「歴史歪曲禁止法」のとんでもない中身、日韓関係はさらに悪化へ (デイリー新潮 2020.8.26)
ちょっと突っ込んだ話になり恐縮だが、にわかに信じがたい内容があったので取り上げてみたい。僕の浅い知識では理解しきれていないのかもしれず、他国のことであるので、法案の背景等もよくわからないが、施行されれば確かにとんでもない法になることは明らかである。その名も「歴史歪曲禁止法」。ここでは、背後にありながら過度に政治的な意味を帯びてくる個々の歴史的事象についてどうこう言うつもりは毛頭ない。あくまで、「歴史」というものを法で規定するというそれこそ「歪曲」した思想の危うさを憂うのである。
記事の著者は、「歴史」を「公的記憶」の集合体であり、「人為的な産物」で「解釈」があるだけだと説明している。まったくその通りだと思うが、もう少し簡易に表現しようとすれば、「評価」がしっくりくると思う。悪い解釈による「評価」もあれば、いい解釈による「評価」もあり、必ず「評価」をする人がいるため人為的な産物には違いない。どんな歴史であれ、誰かの「評価」により記述されているのである。当然、その「評価」は、人によって一致することもあれば、重ならないこともある。例えば、1600年天下分け目の関ヶ原の戦いについて、徳川家の子孫と豊臣家の子孫とでは「評価」が違って当然ではないだろうか。「戦った」という事実を共有しながら、勝者としての「評価」と敗者としての「評価」が存在するのである。
さらに「評価」について少しニュアンスが異なるが、歴史の教科書についても、ほとんど無限に存在する「歴史」の中から誰かが重要だと「評価」した事象を集めて編集したことで1冊になっているに過ぎない。「政治史」・「経済史」・「美術史」・「生活史」などは、視点を絞って「評価」した歴史の一側面であり、すべてを網羅した歴史の教科書などあり得ない話なのである。
では、記事中の内容説明にある「歴史的事実」とはいかに「評価」されたものなのだろうか。かの国において、個々の歴史的事象がどのように「事実」と認定されているのか知る由もないが、記事ではこれを「正史」と表現しており、国全体で「評価」の一致した歴史が存在するかのような前提に立っている。「我が国の歴史はこれです。これ以外の認識は排除して罰します。」という考え方が「歴史歪曲禁止法」。韓国の法律がどうなっているのかわからないが、我が国であれば、思想及び信条の自由・学問の自由・表現の自由等、違憲も甚だしいといった状況になる。もちろん韓国では保障されていない自由であるというならば、一国の制度として尊重されるべきであるが、それはもはや独裁に近い。
多様な視点があり、多方向から「評価」される無数の「歴史」。物理的・制度的事実があったとしても立場によって「評価」が異なることが前提となり、史料等の証拠を集め精査をしながら検討・議論し、事象の本質を追及していくことが歴史の研究であるはずである。
日韓関係はかつてないほど冷え込み、根底には歴史問題が根深く絡んでいる。この記事を読んでいて思うのは、個々の歴史的事象を取り扱う前に「歴史」という概念の理解がお互いに乖離していないかを再確認する必要があるのではないだろうか。後世、その再確認の作業について総理大臣と大統領が「評価」され「歴史」になるはずである。良くも悪くも。
【参考】
https://news.yahoo.co.jp/articles/02aa20ee9d677416d8a4de88c5e9f1023c06c145?page=1